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『黄帝内経』の成立
 
 『黄帝内経』の著者
 
 『黄帝内経(以下内経)』は『黄帝内経素問』と『黄帝内経霊枢』という二つの部分からなり、それぞれ81篇の論文から成り立っています。その論文の多くは「黄帝」と「岐伯」などの人達との問答形式になっています。

 それぞれの論文は学術的観点、理論のレベル、技術、使われている言葉や文字などに違いがあるだけでなく、文字が重複していたり、互いに引用して解釈していたりする部分が見られます。また、さらに古い文献を引用しており、わかっているだけでも30種類以上あります。これからわかることは、学術的な源がたくさんあるだけでなく、広い地域に渡っており、ある時に一人の手によって作られたものではないと言うことです。ある論文が書かれた後に、多くの手によって写され、書き加えられたり、削除されたりしながら伝えられていき、『内経』を著した人が収集、整理したものであると考えられています。

 
 成立年代
 

 『内経』の名前が最も早く見られるのは、『漢書・芸文志』方技略で、「『黄帝内経』十八巻  『外経』三十七巻 『扁鵲内経』九巻 『外経』十二巻 『白氏内経』三十八巻 『外経』三十六巻 『旁篇』二十五巻」とあり、合わせて「医経七家、二百一十六巻」と呼んでいます。『漢書・芸文志』は漢・班固が『七略』を基に著したものです。『七略』は西漢末劉向、劉歆の父子が朝廷の命により著した中国で初めての図書分類目録です。その中の方技類(医薬類)を担当したのは李柱国で、その時間は西漢の成帝の河平三年(B.C.26年)です。したがって、この時にはすでに「『黄帝内経』十八巻」が成立しており、李柱国によって校刊・整理されていたことになり、一般的にはこれが『内経』成立の下限と考えられています。

 成立の上限としては、『漢書』の前の『史記』が指標になると言えるでしょう。『史記』の前の『春秋左氏伝』や『国語』、『戦国策』などの先秦の史書には、医学に関する記載が極めて少なく、医学と黄帝を結びつけていません。『史記』には黄帝から漢の武帝までの三千年余りの歴史が記載されており、各時代の科学史、先秦や漢初の諸子とその著作も紹介されており、戦国時代の秦越人(扁鵲)や漢初の淳于意(倉公)といった医家の「伝」もありますが、『内経』に関する書名はありません。当時『内経』がすでに流伝していれば、朝廷の蔵書を閲覧し、全国各地を調査して回った司馬遷の目に止まったはずです。『扁鵲倉公列伝』にある公乗陽慶が倉公に伝授した「禁方書」のうち、『五色診』、『奇咳朮(奇恒)』、『揆度』、『上下経』は、まさに『内経』に引用されている古医書です。また、倉公の25種類の「診藉」(カルテ)における病名や診療方法は、『内経』と異なるところが大きく、『内経』のように整っていません。このことから、『内経』の成立年代は倉公よりかなり後であると推察できます。倉公が医療をしていた時期は、漢の文帝の時で、紀元前二世紀にあたり、『史記』が書かれたのは、著者が監獄に入れられた(B.C.99年)後になります。以上から、『内経』が編纂されたのは『史記』の後、『七略』の前である西漢の中・後期と考えられます。

 
『内経』の書名について
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 『内経』の書名に冠している「黄帝」は、古きを尊んで伝説の帝王に託したもので、漢代の流行でした。『内経』の「経」という字は、元々織物の縦糸という意味でしたが、そこから意味が派生して常なる道、すなわち法則や原則という意味が生まれ、書籍の中では模範、手本という意味で使われます。したがって、医学書の手本という意味が込められています。

 「内」という字は「外」に対しての意味です。上記のように、『漢書・芸文志』にはいろいろな内経や外経があり、内・外というのは、内容が多かったので半分に分けた、つまり今でいう上巻・下巻のようなものであろうと考えられています。

 『素問』の書名に関しては、見解は一致していませんが、比較的支持されているのは「平素問答」、すなわち、ふだんの黄帝と岐伯らの問答を記録したものという説です。もう一つは「素」を「太素」とする説で、「太素」とは昔の宇宙形成の考え方の一部で、宇宙は無形から有形が生まれ、各段階を太易(気も感じ取ることができない)、太初(気の始め)、太始(形の始め)、太素(質の始め)と名付けました。気形質がそろい、はじめて病気も生まれるので、黄帝がこの「太素」を問うているのだと考えました。『素問』はまさに天地宇宙のマクロの視点から、精気学説や陰陽五行学説を用いて、天と人の関係や人の生命活動の法則、疾病の発生・発展の過程を解釈しており、根本を問うという意味にふさわしいと考えられます。

 『霊枢』の書名にも多くの見解がありますが、「霊枢」という名前は唐・王冰が付けたことがわかっており、王冰は道教に傾倒していたことから、道教の経典である『道蔵』の中の「玉枢」、「神枢」、「霊軸」といった名称を参考にして付けたという説が支持されています。

 
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